“勉強”という言葉に対する違和感

 

どうもこんにちは、たかはん ( @tkhnjp ) です。

同居人が眠りに落ちて退屈なので、最近ずっと考えていたことをメモしようと思います。テーマは「”勉強”という言葉に対する違和感」です。これはいわゆる勉強自体に対する違和感ではなく、勉強という言葉に対しての違和感です。あまりまとまっていませんが文章にしておきます。

 

勉強という言葉を調べると

・ 無理にでも努力して励むこと

・ 仕事に精を出すこと

という意味だとわかります。

 

ぼくが引っかかっているのは1つめの意味の中の「無理にでも」という部分です。この件に関して同居人と議論しようと思ったのですが、「何言ってんの?」状態で相手にしてもらえませんでした。それもごもっとも。自分にとって重要なことが、他の誰かにとって重要なことはほとんどない。

 

ここでこれまでの勉強についてを振り返ってみます。まず小学校。先生から何かを教わって、作文とか計算ドリルとか何かと宿題をやらされます。宿題はその意義は別として、やらされるものなので勉強だと思います。小学生の時点で自らの意思をもって学習をする人は少ないのではないでしょうか。

本題と関係ありませんが、小学生の時は”計算ドリルなんてやる必要があるのか”と思っていました。しかし今となっては、小学校での四則演算も、中学校での一次関数も二次関数も、高校での簡単な微積分も、すべてが今に役立っていると思います。微分方程式を解く時に、最後の最後の足し算を間違えたらアウトです。結局最後は四則演算。

 

次に中学校。勉強に関しては小学生とほとんど変わらないと思います。”有名私立高校に行きたい”みたいな人は別として、ほとんどの場合それは強いられるものなのではないでしょうか。次に高校。高校に行くかは自由ですが、高校進学率は99.8%とかなり高いものです。ぼくは高校生になっても、勉強を強いられているという気持ちがありました。

次に大学。高校進学率は99.8%(2017年の文科省発表)ですが、それに対して大学学部進学率は53.8(2018年度)%です。単純に考えると大学に行くのは2人に1人というわけです。高校は特別な事情がない限り行くものだと思う人が多いと思いますが、大学はそういうわけではありません。

 

興味のある分野について深く学びたければ大学に行くし、家を支えるなどの理由があれば就職することになります。重要なのが“学びたいことがあって大学に行く”ということで、自分の意思で大学に行っている人が”勉強”をする(それを強いられる)のはおかしいのではないかと思ったのです。やりたくなければやらなければいい。

同居人に「勉強してるの?」と聞かれると、ぼくはいつも返答に困ります。確かにぼくは何かを読んだり解いたり(“勉強”に相当するもの)していますが、大抵の場合それは決して誰かに強制されたものではないのです。”勉強している”というと、自分は誰かに強制されてそれをやっているというようなニュアンスになります。それがどうも気分のいいものではない。

 

確かに課題をやっている時は勉強しているかもしれません。ではそれ以外の場合、自分でやりたくてやっている時はどう言えばいいのでしょうか。ぼくは何かをやらされるのが大嫌いなので、課題とか強制的なものは本気で集中してできるだけ短時間で片づけます。やらされる暇があったら自分からやりたい。

そこでぼくは「勉強」の類語を調べました。勉学をするという意味を持つ勉強の類語には、修業・学修・勉学・学習・学ぶ・学問などがあるようです。学問みたいなたいそうなことをしているわけではないので、ぼくにちょうどいいのは「学んでいる」あたりかもしれません。勉強する時間は気分が悪いが、何かを学んでいる時間はとても心地がいい。

 

ぼくは勉強しなさいと言われたことがありません。記憶にないだけで、少しは言われたことがあるのかもしれません。そういう教育方針だったのかもしれませんが、それはとてもすばらしいことだったと思います。勉強しなさいと言われて嬉しい子はいません。やる気がない状態で言われると余計にやる気がなくなります。

これはぼくの推測ですが、やりたい人がやればいいだけで、誰かにやらされるものではないというスタンスだったのではないかと思います。これにはぼくも同感で、やりたい人はやればいいしやりたい人はやらなくていいのです。勉強ができなくても死ぬわけではないし。やるもやらないも勝手です。

 

ではなぜぼくは”学んでいる”のか。きっと「知識欲」みたいなものがあるからだと思います。何かを知りたいという欲求です。ぼくは何かと疑問に思いがちなので、たとえば「なぜ空は青いのか」みたいなことも疑問に思います。結果的にネットで調べることはなく、大学の講義でその理由を知ることになりました。

波長が短いと散乱しやすい、それが関係して空は青い。夕方になって太陽が傾くと波長の短い光(=青)は散乱しきってしまい、波長の長い光(=赤)は散乱されにくく遠くまで届く。だから夕陽は赤い。みたいな話を聞いた時に、ぼくは小さな感動をおぼえました。知るよろこびを感じた気がします。

 

このような疑問は無数にあって、数学ならたとえば「なぜsinを微分するとcosになるのか」だったり、物理ならたとえば「なぜ変位を微分すると速度になって、速度を微分すると加速度になるのか」みたいな。疑問に思ったら、参考書を読んだりネットで調べて解決する。すると少し賢くなった気分になれる。とても気分がいい。

とてもいい時代になったもので、スマホで調べれば何でも出てきます。ズルになるかもしれませんが、わからない問題を某知恵袋で調べると詳しい解説が載っていること多々あります。特定の分野について順序立てて説明するサイトもあるし、YouTubeで調べると動画で何かを解説している動画がたくさんあります。

 

摩擦を無視すると自由落下する物体は1秒間に9.8m/sずつ加速します。加速度9.8m/s^2。どうでもいいことかもしれませんが、

へ〜 物をそっと落とすと1秒間に9.8m/sずつ速くなるんだ〜

というのがどうもおもしろく感じるのです。”何それおもしろ〜い”状態。同じようなことが、いろいろな分野で起きてそれらが連鎖するのです。

 

話は変わりますが、ぼくの学習スタイルは一貫しています。「何かをしながら学習する」というものです。ながら勉強はよくないと思うかもしれませんが、ぼくはそうは思いません。このスタイルは大学受験の時から貫いていて、最近ではYouTubeの動画を流しながら学習することが多いです。

ながら勉強は確かに効率が下がるかもしれない。でもだったら時間を増やせばいい。ぼくは静寂に包まれた空間で何かをするのが苦手なので、何かをする時はだいたいYouTubeの動画を流したり音楽をかけたりしています。そしてその音楽とかが学習効率を下げるとはそれほど思っていません。

 

むしろ音楽と学習が結びついて、音楽を聴くとその時に学んでいたことを思い出すし、反対にその時に聴いていた音楽を思い出すみたいな相乗効果が生まれてプラスになるとすら思っています。結局のところぼくはノイズがある方が集中できるので、ながらスタイルは決して遊んでいるわけではないということです。

ぼくは勉強しなさいと言われた子が勉強しないことを知っているので、もし親という立場になったとしてもできるだけ勉強しなさいと言わないようにしたいと思っています。子がいないからそう考えるだけで、もし子ができたら親のお節介で勉強しなさいと言ってしまうのかもしれませんが…

 

まとまりのない文章ですが、ぼくが言いたいのはただひとつ。勉強は嫌いですが、学ぶことは好きなのです。

 

\\\ 勉強(という言葉)が嫌いだ ///

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